2011年8月9日火曜日

たのしい詩・面白い詩・残酷な詩! 

         
 童謡にはたのしい詩が多い。「かわいいかくれんぼ」(サトウハチロー)、「いぬのおまわりさん」(佐藤義美)、「おはなしゆびさん」(香山美子)といくらでもある。これらの童謡のたのしさとはちょっと違うたのしさになるが、少年詩も本来、たのしさを大きな魅力の一つとして備えているジャンルだと思う。具体的に作品をあげると、たとえばくどうなおこの初期の作品のほとんどがそうだ。「てつがくのライオン」や「のはらうた」。空想の自由さが素敵なエンタメ系のたのしさである。しかし、できれば、それは詩としてのリアルな味わいのあるたのしさであってほしい。その意味で私の好みからすると鶴見正夫の「ぼくとイヌ」「ぼくと月」「ぼくと水」「ぼくとなみだ」なんかは自省が大いに愉快で見事である。認識の詩でもあり、たのしい詩の一つの頂点をなしている。まどみちおの「てんぷらぴりぴり」や「つけもののおもし」をはじめとする少年詩も素晴らしい。これもまた認識の詩のひとつの頂点をなしているといえよう。認識の詩が愉快であったり、ユーモアにあふれていたり、戯画であったりするのには理由があるがここでは触れない。ここで自覚したいのはエンタメ系のたのしさもふくめて少年詩の分野においてはたのしい詩はまだまだ十分には書かれていないように思う。たのしい詩、愉快な詩、面白い詩が、一つの行き方として少年詩のもつ可能性を開くだろうことだ。
 もちろん、たのしい詩というのは少年詩の専売特許ではない。近現代詩にもたのしい詩を多く見つけることができる。ここでは少年詩専門ではない詩人の愉快な作品、たのしい詩、面白い詩をほんの少し紹介してみることで少年詩のその方向での可能性にも触れてみたい。
 数えうた   堀口大學
  うそを数へて
  ほんまどす
  めくらを数へて
  あんまどす
  ととを数へて
  さんまどす
  とんぼを数へて
  やんまどす
  まぬけを数へて
  とんまどす
  くとうを数へて
  コンマどす
  したを数へて
  エンマどす
 最後の一連は佐藤春夫が追加したとな。単なるダジャレの数え唄だが、「どす」という上方の方言(?)がそのままドスが効いていて面白い。少年詩ももっとダジャレの詩が精力的につくられてもいいが、ダジャレだけではもちろんダメで、たとえば「かさぶたってどんなぶた?」(山中利子)、「かなしみってどんなしみ?」(寺山修司)式に、もうひと味が必要である。
 ところで堀口大學にはやたらに愉しい詩が多い。
  小学生   堀口大學
  先生
  植物学はうそですね
  樹木もやはり笑うもの
  梅が一輪咲きました
  大胆な詩である。大學には笑える短詩がたくさんある。「むかし 紅顔/いま 羅漢//たて皺/よこ皺/格子皺//もう飽かん」(「羅漢の歌」)。「――ミーン ミーン/詩人のはしくれ大學君/彫身鏤骨とおっしゃるが/君なんか/まだまだ苦心が足りないよ/僕を見給え この僕を/ただひと夏の歌のため/地下の苦労が十七年/ミーン ミーン」(「蝉の言葉」)。「詩に行数を競う/清三郎と順一郎/どっちが勝つやら/負けるやら//ハッケ ヨイ ヨイ!/残った 残った//何が?」(「横綱相撲」)こんな感じである。詩として価値があるとかないとかまったく感じさせない。詩で遊んでいる。三昧である。少年詩も遊び呆けるくらいの詩があってもいいだろう。
  蛇   鳥見迅彦
  手に手に棒きれをもち石をもちおまえたちは
  おれをとりかこんでしまつた
  はじめはじようだんだとおれは思つたくらいだ
  一つの石はいきなりとんでおれの目玉をぐしやりつぶし
  つづいて石だ石だ石だ石だ
  ぐしやりとまた
  おれの胸はやられ
  口からは血が
    あのいいにおいのするくさむらへ
    かえつてゆきとぐろをまき
    ひなたの音楽をゆつくりきき
  匍つて逃げる
  だめかもしれない
逃すな逃すな棒きれでぐいとくびを押さえ
口あいたまんま
舌はさわぎ
  くさむらくさむら
  まつくらぎらぎらひかつている
  かみなりの晩
  縞子さんとあいびきしたね縞子さん
  縞子さんはあのとき甘えておれに
 
がしやり頭をとうとうやられ
  おれに石を投げたおまえたちよ
  けれどもおれには立ちあがつておまえたちに石を投げかえすことができない
血と泥
ひんまがつて
おれはおまえたちのなすがままだ
    ああ夕やけ雲が
    あんなにきれいおまえたちの肩の上に
    風は凪いだようだな
    さあ棒きれと残りの石をおれの死骸のそばにほうりだして
    おまえたちは帰れ
 鳥見迅彦の『けものみち』からの一篇。少年詩にもありがちな情景だが、それを蛇の側から描いている。いささか残酷である。もちろん動物愛護を訴える詩ではない。人間もけものと同じであるという詩だ。「『けものみち』とは深い山の中をゆききするけものたちのひそかな踏跡のことであるが、ここでは人間の行動を暗示する一つの隠喩として藉りた。奇怪な偏光に照らされながら人生というけものみちをさまよう人々のすがたを思いうかべ、この詩集の題とした」とあとがきにある。詩人は蛇におのれ或いは誰かを仮託しているようだが、奇怪な光に照らされた人生というものがわからなくても十分に感動を与える詩である。殊に最後の一行には強烈な拒絶の意志が感じられる。こういう詩を少年詩でも私は読みたい。残酷すぎるだろうか?。漫画はもちろん、児童文学でもこういう世界はすでに表現されているが……。
 
普通、子どもは大人への成長段階にあるというのだが、成長してわれわれのような大人になるというのは大人優位の考えであり、しかも夢のない話である。いや、実は、子どもこそ完璧であり、われわれ大人は単に子どもの老化した姿ではないだろうか。大事なのは子どもは身体も心も成長する過程にある存在ということで、身体も心も老化して大人になる存在ではないということだ。そう思うとまったく表現されていない子どもの世界が少年詩ではほとんど手つかずの状態で残されているような気がしてくる。
乱暴に言えばみんな子どもになって少年詩で遊べばいい。それこそが少年詩の冒険といっていい。

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