2013年1月7日月曜日

三上緑詩集『いつか会った風に』

『 いつか会った風に』 三上緑詩集ができました。

2013年1月15日発行 A5 変形判 上製 192頁 
著 者  三上 緑   絵  篠原晴美
ISBN978-4-905036-04-3 C0092    1200円+税

著者略歴
 三上緑(みかみ・みどり)
 神奈川県横須賀市生まれ。三歳のとき、横浜市戸塚区(現・栄区)に転居、現在に至る。一九七〇年代後半から童話の同人誌「はとぐるま」に所属し、童話と詩を書き始める。その後、重清良吉氏、水橋晋氏の指導を受け、詩作に専念。二〇〇一年から詩誌「かもめ号」同人。詩集に『足』『太陽の散歩』(ともに樹海社刊)がある。

画家 篠原晴美(しのはらはれみ)
 神奈川県生まれ 木版画家(水性木版画で作品を作る)。 主な受賞歴 2000,2001,2003,2006年 ボローニャ国際絵本原画展入選 、2000年 フランス Figures Futur 2000(児童書ブッ クフェアー)入選。童謡絵本や児童文学雑誌の表紙、挿画多数。展覧会活動も精力的に行っている。

詩集より



やまゆり


やまゆりの花が
咲きほこっていた
あの夏の日
一本 一本 つんだ
かかえきれないほどつんだ
オレンジ色の花粉で
まっ白な
ワンピースがそまった
おこられるなと思った
でも
母は
ありがとうと言って
大きな
花びんにいけてくれた



百日紅(さるすべり)


まっさおな空
百日紅の花が
ふんわりと咲いている
一輪一輪は
さみしげな花だけど
いっぱい集まって
毎年おとずれる夏
あなたの好きだった
花が
暑さの中
私にがんばれと
おしえてくれる



からっぽ


頭の中が
コロコロ カラカラ
ばあちゃんは
首をふると音がするという

わたしは
耳をちかづけたが
聞こえない

でも
ばあちゃんには
ひびきわたっているという

若かった頃は
子どもをせおって
毎日 店で
コロッケをつくってた

今はその音が聞こえるだけ
涙をポロポロこぼしながら
くりかえす
からっぽ
からっぽと



としさんの世界(二)


としさんの
気持ちよさそうな寝息が
ながれる

夢をみている 
子どものころ
横須賀の海で
まっ黒になって
カニやフグをつかまえ
夏は一日中あそんだ

目がさめて
がっかりしている
九十歳のとしさん
   




としさんの世界(


訪問入浴で
さっぱりした午後
昼寝中に
「おかあさん」 と
わたしは
「なに」 というと
気持ちよさそうな顔
ねごとだった

どんな夢をみているのだろう
うれしそうな顔
きっと母親に
おやつのふかしいもを
もらった夢を

秋の陽ざしに
ほっとする


としさんの世界(


しかたないんだ
だれのせいでもない
としさんはつぶやいた

会いたいな 息子に
もう少し生きていてくれたら
部屋の空気が
つめたくとまった

私は
聞こえないふりをして
としさんの
そばをはなれた

今年いちばん寒い日


 
心がゆれる


なんでもなく
くらすことが
あたりまえだと思う
わたしがいる

一日一日がすぎていく
だけど
このふつうのときが
いちばん幸福だと
あの大地震から
いつも思っている

ゆれる心をおさえて









 

2012年8月17日金曜日

山中利子詩集『空に落ちているもの あたしのためいき』



  わたしとシロくん
  
シロくんが わたしのお兄ちゃん    
シロくんは玄関の敷物(しきもの)の上にいる  
ごわごわした白い毛のむねにもたれて わたしは眠る  
母さんの夢を見る
母さんは どこかでわたしを見ている
 
どこなのか 探し続ける  
 暗い森   
大きな木
   
 藪をくぐり 明かりをさがして  
 母さん 母さん  と呼び続ける  
 探しても探しても 見つからない  

 藪の中で  光るものがわたしを見ている  
 気がつくと  シロくんが わたしをぺろぺろとなめている
 光っていたのは  シロくんの茶色の目    
 目を覚ましたわたしは  シロくんのしっぽと遊ぶ  
   パタリ パタリ     
 動くしっぽに狙いをつけて   
腰を高く上げて  おしりをふって
 スリッパの陰から  
 (ねら)い定めて飛び(かか)る    

 シロくんはゆっくりと   
 何時までも
 パタリ パタリ   
 しっぽを振り続ける (わたしはサクラから)
 

 




「詩を書くおばあさん」の詩――山中利子小論

「詩を書くおばあさん」の詩――山中利子小論   

 子ども向けの詩を専ら書く詩人とはいったい何者だろう? 子どもの感覚と生活感情に即した詩は誰にでも書けるものではない。どう考えても、ごく選ばれた少数の児童文学者であり、同時に特別な素養をもつ詩人だけに可能なことだ。彼等は子どもに読んでもらうために詩を書いているのだろうか。実際にはそうではないように思える。むしろ、彼等の書く詩は子どもの目、子どものことば、子どもの世界から多くの詩想を得て、自ら子どもの世界に遊ぶかのように思われる。彼等のごく少数は子どもの頃の思い出をつい昨日の出来事のようにありありと覚えているようだ。
自ら「詩を書くおばあさん」と自認する山中利子もどうやら子どものための詩人として選ばれた一人である。子どもの生活感情と感覚に即した詩集として、山中利子の『だあれもいない日―わたしの おじいちゃん おばあちゃん―』(リーブル・一九九六年)ほど見事な世界を私はほかに思い浮かべることができない。

ねむるとき

おじいちゃんとおばあちゃんの まんなかにねる
おばあちゃんはわたしをだいて
せなかをとんとんたたく
わたしがねむってしまったとおもうと手は
とまる
ふたりはしずかに話をしている
「まなべのとくさんは どうしたろう」
と おばあちゃんがいう
「とくさんは 死んだよ」
と おじいちゃんが答える
「やきちさんは たっしゃだろうか」
「上野村のやきちさんも二年半まえ死んだ」
「そんじゃ おしずねえさんは」
「おしずさんはなあ どうしているか
死んだかもしれねえなあ
わしより 四つも上だから」
ふたりは死んだ人のことばかりかぞえあげて
そろって
「なんまんだぶ なんまんだぶ」
と ひくくつぶやく
死んでしまった人たちが
わたしの上をいったりきたりする

子どもは大人よりも早く寝なさいと言われて、寝床につくがなかなか眠れない。そんな子どもの上をいったりきたりする死者は本当の出来事のように感じられる。最後の二行は付け足しではない。単なる子どもの夢想として扱われていないのだ。

さて、この詩集は、孫である幼い女の子がおじいちゃんとおばあちゃんの三人で過ごす日々を一人称で語る連作である。したがって女の子にとって「意味」があることしか描かれない。それは大人から見ると取り立てて意味のないことばかりで、電灯のひもの影が虫に見えたとか、学校にいくのがいやだとか、おばあちゃんのお餅を返す手の素早さだとか、ダダをこねて大の字になると空がきれいとか、野原でへびを怖がりながらオシッコしたとか、せきどめの薬と称してのまされたナメクジがおなかの中を散歩するとか……そういう出来事ばかりである。しかもどこかしらとんちんかんである。いつの時代の、どこの村で、女の子は何歳で、どうして祖父母といっしょに暮らしているか、というようなことは一切書かれていない。おじいちゃんもおばあちゃんも「わたし」もただ生きているだけにすぎない。懸命に、それなりに、ただ生きている。事件らしい事件もないのだが、おばあちゃんが死に、おじいちゃんが死に……、それも女の子にとっては「いなくなった」だけのことにすぎない。おじいちゃんは「ありがたい」と言って死んだという。この詩世界では死ぬことも「ありがたい」ことなのである。空の雲のかたちが変わるように出来事は坦々として描かれるが、世界はそのまま何も変わることはない。

山中利子は昭和十七年生まれ。五人兄弟の三番目。敗戦直後の食糧難の時期に一人だけおじいちゃんおばあちゃんのもとに預けられたという。『だあれもいない日―わたしの おじいちゃん おばあちゃん―』が詩人自身の幼時の思い出をもとにしていることは間違いないだろう。敗戦後の数年間は特別な時期で、日本は占領されて、平和と民主主義の国に大転換させられる。忠君愛国者の虚脱や餓死もあれば、今日一日生き延びれば儲けものという大いなる楽観もあった。詩集にはそういうことは一切描かれていないが、描かれた世界がこの世のどこにもない場所、無可有郷のように思えてくる背景には、やはり大人も真っ白になった特別な時期ということがあるかもしれない。

『だあれもいない日―わたしの おじいちゃん おばあちゃん―』は連作なので散文と詩の中間を行くような文体の作品があったが、他の詩集を読むと山中利子の詩はかっちりとまとまりのよいものが多い。また一つの大きな傾向として、子どもの空想をそのまま差し出したようなお伽話のような詩が多い。
「雲ってハンカチよりもっと大きい/ハンカチは今/雲の上にチョコンと乗っかって/私が行って腰をおろすのを/待っている//風といっしょに/あそこまで行ってみようか」(「風とハンカチ」部分)
愛するべきはこうしたお伽の世界であり、子どもらしいお伽話こそ読者を現実の桎梏から解放し、喜ばせる。お伽話は山中利子の詩の大きな要素である。
また山中利子の詩はモラリストの詩でもある。
「すきだってことは/たべちゃいたいってことなんだって//ライオンは しまうまを/うさぎは クローバーを/とうさんは かあさんを/すきなんだよ」(「すきだってことは」部分)
そのものズバリの詩である。「すきだってことはたべちゃいたいことなんだって」ならば、最後の「とうさんは かあさんを」にドッキリ。だからモラルに反すると愛のない性教育論者のように短絡的に考えてはならない。単純この上ない性愛の事実をこうして素敵な詩として表現できることは、逆に、山中利子の詩が極めて道徳性の高い詩であることを意味している 。
そして言うまでもなく山中利子の詩はユーモアと遊び心を何よりも大切にしている。

本来、子どもは融通無碍なものだ。かつて重症心身障害児専門の訪問看護婦であった山中利子には大人がどれほど苦しみながら子どもを愛するか、そして子どもを愛することで大人がどれだけ救われるのか、まざまざとその目で見てきたことだろう。いかに「無常」であろうとも「虚無」であろうとも、いわゆる「生活詩」や「社会」、「教訓」、「人生」といった方向に山中利子のベクトルはない。そんなものとは無縁に山中利子の詩の中にいる子どもは遊びつづけるだけだ。それこそが子どものための詩人として選ばれた証だと言える。
子どもの世界のなんと大きくて広いこと。子どもの世界は、狭い社会で苦しむ大人の考えを遙かに超えた大いなるいのちの源であり、豊饒な詩の世界そのものである。

追記 山中利子は第五詩集『だあれもいない日―わたしの おじいちゃん おばあちゃん―』で第三回三越左千夫賞、第七詩集『遠くて近いものたち』で第二十七回新美南吉児童文学賞を受賞している。

2012年4月6日金曜日

『このて60号特別記念号』 ができました

ISBN978-4-905036-02-9 C0092 ¥953E
『このて60号特別記念号』
著者 このての会  定価1000円(本体953円+税)
発行発売2011年3月16
四季の森社 A5判並製 本文216ページ カバー4C表紙4C

このて の会は関西を中心に活躍する詩人の会。代表下田喜久美氏。
児童文学、朗読の会、少年詩などさまざまな活動がつづけられている。

2012年1月21日土曜日

小林雅子詩集『青銅の洗面器』

小林雅子詩集『青銅の洗面器』が発売されました。


木の葉  

さながら 交通標識のように
木の葉は一枚一枚きらめく
それは 海越えて渡って来た
鳥たちへの暗号です
彼らに夏の宿を知らせる
無数の小さな反射鏡です
キラキラ 右へお行きなさい
キラ   左へ曲がりなさい
木の葉は一枚一枚きらめく
さながら 交通標識のように





夕ぐれのなかに潜んで
木は 何を思っているのだろう
夜の衣のすそをかかげ
枝の間にしじまを張りめぐらせ
暗さをひきこませ
葉たちも動きを止めている
木よ!
沈黙のなかに
帰らぬ鳥を待っているというのか





ゴイサギが
闇のあいまをすりぬけて
あざけりながら渡っていった
夜の気配は ひしひしと
木々のあいだにせまってくる
黒い光沢が湖水に広がり
窓の灯は ゆらりとゆがむ
魚があわててはねるとき
灯は散って
湖は 深い夜と溶け合った



十一月の丘

十一月の丘の上
灰色の空が 目の前に広がり
風は
枯れた草のかたまりを
音もなく もちさる
いつも 十一月の始まりには
風に吹かれに 丘に登る
乾いたほほを
さわっていく風は
わたしを 何にさそうのだろう



風のない日

風のない日は 世界が止まる
動いているのは わたしだけ
風のない日は 音も止まる
聞こえているのは 鼓動だけ
風のない日に通りを歩く
そこにいるのは わたしだけ
高く凍った大気の中に
すべてのものがすいこまれ
わたしといっしょに歩くのは
遠い遠い気配だけ

2011年8月9日火曜日

たのしい詩・面白い詩・残酷な詩! 

         
 童謡にはたのしい詩が多い。「かわいいかくれんぼ」(サトウハチロー)、「いぬのおまわりさん」(佐藤義美)、「おはなしゆびさん」(香山美子)といくらでもある。これらの童謡のたのしさとはちょっと違うたのしさになるが、少年詩も本来、たのしさを大きな魅力の一つとして備えているジャンルだと思う。具体的に作品をあげると、たとえばくどうなおこの初期の作品のほとんどがそうだ。「てつがくのライオン」や「のはらうた」。空想の自由さが素敵なエンタメ系のたのしさである。しかし、できれば、それは詩としてのリアルな味わいのあるたのしさであってほしい。その意味で私の好みからすると鶴見正夫の「ぼくとイヌ」「ぼくと月」「ぼくと水」「ぼくとなみだ」なんかは自省が大いに愉快で見事である。認識の詩でもあり、たのしい詩の一つの頂点をなしている。まどみちおの「てんぷらぴりぴり」や「つけもののおもし」をはじめとする少年詩も素晴らしい。これもまた認識の詩のひとつの頂点をなしているといえよう。認識の詩が愉快であったり、ユーモアにあふれていたり、戯画であったりするのには理由があるがここでは触れない。ここで自覚したいのはエンタメ系のたのしさもふくめて少年詩の分野においてはたのしい詩はまだまだ十分には書かれていないように思う。たのしい詩、愉快な詩、面白い詩が、一つの行き方として少年詩のもつ可能性を開くだろうことだ。
 もちろん、たのしい詩というのは少年詩の専売特許ではない。近現代詩にもたのしい詩を多く見つけることができる。ここでは少年詩専門ではない詩人の愉快な作品、たのしい詩、面白い詩をほんの少し紹介してみることで少年詩のその方向での可能性にも触れてみたい。
 数えうた   堀口大學
  うそを数へて
  ほんまどす
  めくらを数へて
  あんまどす
  ととを数へて
  さんまどす
  とんぼを数へて
  やんまどす
  まぬけを数へて
  とんまどす
  くとうを数へて
  コンマどす
  したを数へて
  エンマどす
 最後の一連は佐藤春夫が追加したとな。単なるダジャレの数え唄だが、「どす」という上方の方言(?)がそのままドスが効いていて面白い。少年詩ももっとダジャレの詩が精力的につくられてもいいが、ダジャレだけではもちろんダメで、たとえば「かさぶたってどんなぶた?」(山中利子)、「かなしみってどんなしみ?」(寺山修司)式に、もうひと味が必要である。
 ところで堀口大學にはやたらに愉しい詩が多い。
  小学生   堀口大學
  先生
  植物学はうそですね
  樹木もやはり笑うもの
  梅が一輪咲きました
  大胆な詩である。大學には笑える短詩がたくさんある。「むかし 紅顔/いま 羅漢//たて皺/よこ皺/格子皺//もう飽かん」(「羅漢の歌」)。「――ミーン ミーン/詩人のはしくれ大學君/彫身鏤骨とおっしゃるが/君なんか/まだまだ苦心が足りないよ/僕を見給え この僕を/ただひと夏の歌のため/地下の苦労が十七年/ミーン ミーン」(「蝉の言葉」)。「詩に行数を競う/清三郎と順一郎/どっちが勝つやら/負けるやら//ハッケ ヨイ ヨイ!/残った 残った//何が?」(「横綱相撲」)こんな感じである。詩として価値があるとかないとかまったく感じさせない。詩で遊んでいる。三昧である。少年詩も遊び呆けるくらいの詩があってもいいだろう。
  蛇   鳥見迅彦
  手に手に棒きれをもち石をもちおまえたちは
  おれをとりかこんでしまつた
  はじめはじようだんだとおれは思つたくらいだ
  一つの石はいきなりとんでおれの目玉をぐしやりつぶし
  つづいて石だ石だ石だ石だ
  ぐしやりとまた
  おれの胸はやられ
  口からは血が
    あのいいにおいのするくさむらへ
    かえつてゆきとぐろをまき
    ひなたの音楽をゆつくりきき
  匍つて逃げる
  だめかもしれない
逃すな逃すな棒きれでぐいとくびを押さえ
口あいたまんま
舌はさわぎ
  くさむらくさむら
  まつくらぎらぎらひかつている
  かみなりの晩
  縞子さんとあいびきしたね縞子さん
  縞子さんはあのとき甘えておれに
 
がしやり頭をとうとうやられ
  おれに石を投げたおまえたちよ
  けれどもおれには立ちあがつておまえたちに石を投げかえすことができない
血と泥
ひんまがつて
おれはおまえたちのなすがままだ
    ああ夕やけ雲が
    あんなにきれいおまえたちの肩の上に
    風は凪いだようだな
    さあ棒きれと残りの石をおれの死骸のそばにほうりだして
    おまえたちは帰れ
 鳥見迅彦の『けものみち』からの一篇。少年詩にもありがちな情景だが、それを蛇の側から描いている。いささか残酷である。もちろん動物愛護を訴える詩ではない。人間もけものと同じであるという詩だ。「『けものみち』とは深い山の中をゆききするけものたちのひそかな踏跡のことであるが、ここでは人間の行動を暗示する一つの隠喩として藉りた。奇怪な偏光に照らされながら人生というけものみちをさまよう人々のすがたを思いうかべ、この詩集の題とした」とあとがきにある。詩人は蛇におのれ或いは誰かを仮託しているようだが、奇怪な光に照らされた人生というものがわからなくても十分に感動を与える詩である。殊に最後の一行には強烈な拒絶の意志が感じられる。こういう詩を少年詩でも私は読みたい。残酷すぎるだろうか?。漫画はもちろん、児童文学でもこういう世界はすでに表現されているが……。
 
普通、子どもは大人への成長段階にあるというのだが、成長してわれわれのような大人になるというのは大人優位の考えであり、しかも夢のない話である。いや、実は、子どもこそ完璧であり、われわれ大人は単に子どもの老化した姿ではないだろうか。大事なのは子どもは身体も心も成長する過程にある存在ということで、身体も心も老化して大人になる存在ではないということだ。そう思うとまったく表現されていない子どもの世界が少年詩ではほとんど手つかずの状態で残されているような気がしてくる。
乱暴に言えばみんな子どもになって少年詩で遊べばいい。それこそが少年詩の冒険といっていい。

2011年1月5日水曜日

姜尚中「姜尚中の政治学入門」集英社新書

なんてわかりやすい政治学入門書だろうとびっくりしました。
アメリカ、暴力、主権、憲法、戦後民主主義、歴史認識、東北アジア
これらの7章を通じて現代の日本を政治がどうであったかを歴史的認識を駆使して、興味深く、具体的にとらえます。
読んでいて難しくなんかないし、身近な話ばかりで、しかもレベルの高い内容でした。章ごとに、たとえば戦後民主主義では丸山真男「超国家主義の論理と心理」やジョンダワ―の「敗北を抱きしめて」などの名著も紹介し、さらに深く探求できるような仕組みになっている。
丸山の「永久革命としての民主化」という思想はいかにも戦後的で民衆の政治的行動の原点でした。そういうこともちゃんと教えてくれます。