「ただごと詩」とは生活詩であるが臭くない、何気ない瞬間の詩として考える。短歌で言う花屋の花を賞ずる風の「ただごと歌」からのわたしの造語である。
短歌では「花屋の花を愛でむ」式の月並みな作品としてただごと歌はいつの世にもたくさんつくられているが現代詩においてはただごと詩はむしろあまり作られていないのではないかと思う。月並みな詩はもちろんあるのだが、それは自己中な詩でうんざりする。ただごと詩は自己中とは違うものと私は考えている。
そんなことを思ったのははたちよしこさんのいくつかの詩を読んだからだ。
はたちさんの詩には「ただごと詩」の印象が強い作品がある。どれも一連の事象を観察するのだが、全身全霊の注意力で、最後に自分の存在や気づきを拾い上げてくる。そこで拾い上げられる自分のゆらぎも見事に現前したものとして客観化され、処理されている。
具体的に詩を少し引いておきたい。
ままごと(「カヤック」18号より)
白詰草にすわって
花を摘む
手はままごとを憶えている
白い花を
ごはんにしたこと
こころは忘れていたのに
「手はままごとを憶えている」というところが観察である。この一行の客観性が効いているので最後の一行が陳腐ではなくなってくる。
夏(「カヤック」18号より)
「そうめんが できましたよ」
母に呼ばれる
新聞を読んでいた父が 立っていく
祖母がかいだんを 下りてくる
姉がおつかいから かえってくる
食卓には 薬味のネギとショウガ
ガラスのうつわには
そうめんが いっぱい
「ひえてるね」
「おいしいね」
あぶらぜみの声が
家を つつんでいる
ことしも 夏になると
わたしは
母の声に よばれる
第一連では「母に呼ばれる」が最後の連では「母の声に呼ばれる」。実に微妙な言い回しの違いだが、これだけで母の不在を感じさせてしまう。凄い。鍛え上げた上手さはそのままに、ここでは子どものころの拙くて幼い心情も見事に客観化されている。
最後に「ただごと詩」として「こぼれる!」を紹介しておきたい。
こぼれる!
――かみしばいやさんごっこしよう
わたしはいった
ふたりの子は目をかがやかした
――見るのは 十円だよ
はこをさしだすと
子どもたちはうれしそうに
十円を入れるまねをする
――それでは はじまり はじまり
そういって わたしは
はこを
さかさまにしておいた
そのとき 子どもがさけんだ
―― あっ おかねが こぼれる!
かみしばいが
終わっても
「こぼれる!」といった
ちいさな子のしんけんな目が
わすれられなかった
日常の何気ない一瞬のこと、ちょっとひっかかっても詩にしないで通り過ぎてしまうような出来事である。「観察」と「修練」がないとここまで的確に言語作品にはできないものである。そして一口に「観察」といっているが、「観察」されたものは「子ども」の目ではなく実は「わたし」自身なのである。
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